ZARD 坂井泉水とはどんな人?大黒摩季と抜け出しコンビニへ行く

ZARD 坂井泉水さんが40歳の若さで突然この世をさった真相が自殺だったのか事故だったのか真相は闇の中ですが、当時コーラスを担当していた無名時代の大黒摩季さんが語った坂井さんの素顔は抜け出してコンビニに行こうと誘うかわいい小悪魔とは?どんな人だったのか明かされました。


ZARD 坂井泉水とはどんな人?


没後12年が経ち今もなお、色褪せない楽曲と透明感のある歌声。

闘病生活の末、その死因の真相が今も闇の中となっているミステリアスな歌手。

ZARD 坂井泉水さんの素顔・苦悩・がん闘病生活が関係者の新証言により明らかになったのでした。


ZARD 坂井泉水のレコーディングの様子

真剣な眼差しで楽譜を確認し、レコーディーングブースに入る時は決まってカーテンを閉め歌っている姿を見せなかったそうです。

その背景には、坂井泉水さんの「シャイな性格」から集中力を高めるために行なっていたのだといいます。


ミュージックビデオや資料用に歌っている姿を撮影する時だけカメラが中に入ることを許していたそうです。


ZARD 坂井泉水の幼少期と夢

恥ずかしがり屋で、おとなしい女の子だったそうです。

しかし、一度やると決めたらやり通すタイプでした。


子供の頃に抱いた夢は、

「テレビに映る人になりたい」

「テレビの中に入りたい」


テレビの中の華やかな世界に憧れ、その中でも音楽に好奇心を駆り立てられたといいます。


ちびまる子のオーディションに落選

1990年。23歳の時に応募したB.B.クイーンズのバックコーラスのオーディションに参加をしました。

B.B.クイーンズはちびまるこちゃんのオープニング曲「おどるポンポコリン」で大ヒットをしたグループです。


バックコーラスには宇徳敬子らのミケの3人組が起用されました。

このオーディションに落選してしまったのですが、後に宇徳敬子さんも坂井泉水さんも名探偵コナンの主題歌を歌う有名歌手になるわけですから、とても運命を感じます。


このオーディションを受けたことが坂井さんの歌手人生に大きな転機となったのでした。

審査員の1人が当時、オーディションで坂井さんが話した言葉を明かしています。


「歌うことが私の夢」

書籍「永遠」より

この時の熱意が審査員の心を動かし、坂井泉水さんを中心としたZARDプロジェクトが始動したのでした。


ZARD坂井泉水はどんな歌手だった?

ZARDのデビューから坂井さんが亡くなるまで担当をした音楽プロデューサーの寺尾広さんはボーカル坂井泉水の印象をこう語っています。


見た目が大人しくて、どうなるかなと思っていた

でも、すごいよく響く大きい声だった

まずそこにびっくりした。メーターが振り切りそうだったのでエンジニアが設定を変えて確認していた

男性のロックボーカリストと同じくらいだった


1991年ZARDがデビュー。デビュー曲「Good-bye My Loneliness」がいきなりの20万枚のヒットとなり、その2年後 名曲「負けないで」が165万枚のセールスで歌手としてだけではなく、作詞家としても坂井泉水を確立したのでした。


ZARD坂井泉水の作品つくり

レコーディングブースには、愛用のヘッドフォンと音程を取るためのトイピアノを置き、マイクの前には、歌詞が書かれた譜面を置いて、何度も、何度も歌詞を書き換えたり、歌い方のアクセントや発音などのメモを入れながら一切の妥協をしなかったそうです。


何度も悩み抜き、大体のアーティストが3〜4回やり直す程度のところをZARDは最大27〜28回もやり直したそうです。


突き詰めるタイプで、直しが半端じゃなかった坂井さん。

幼少期からの「やると決めたら最後までやる」というスタンスを歌手となっても続けていたのですね。


大黒摩季が語る坂井泉水

デビュー曲から「負けないで」「揺れる想い」など数多くのヒット曲のバックコーラスをしていた、まだ当時無名の大黒摩季さん。


泉水ちゃんはキラキラの粉が舞っているいるみたいな感じの人だった。洗練られてて、みずみずしかった


大黒摩季から見た歌手 坂井泉水

バックコーラスで一番苦労したのは「揺れる想い」だったそうです。


コーラスをやる人は、ボーカリストの全ての機微をつかまなきゃいけないので、これまた、泉水ちゃんは読めない人だった。

同じ譜割りで歌うことがなかった。


「揺れる想い〜」のフレーズが何箇所もあるけど、『揺れる想い』が変化していくように歌っちゃうんです。


だから、ブレスの位置、アクセントをつけたところ、それを全て受け止める彼氏のように全部聞いて、泉水ちゃんに負けないくらい、スタッフよりも私が一番聞いたんじゃないですかね。


すごく真面目で音楽に対して謙虚。常に学んで自分の理想に近くまに努力を重ねる人だった。本当にすごい人。

と語っていました。


大黒摩季にした坂井泉水のかわいいお願い

多忙を極めるレコーディングの最中、大黒摩季さんにした坂井さんのかわいいお願いが今でも忘れられないといいます。


坂井:「コンビニに買いに行かない?」

大黒:「いや、買ってきますよ」

坂井:「一緒に行かない?」

大黒:「いや、一緒に行かないよ。連れ出したら怒られるし」


当時、厳戒態勢で厳しい管理下にあったという坂井さん。

メディアにほとんど露出しないZARDの姿を撮りたいとメディアやマスコミが狙ったいたそうです。


それでも、坂井さんは、大黒摩季さんに上目つかいで優しくささやくように

坂井:「お願い。一緒に行こうよ。一緒に来て」

と、いたずらっ子の悪い顔が忘れられない。


かわいらしいあの顔が小悪魔のように「行こうよ」と誘ってきて、ゾクーッと来たそうです。


大黒さんは坂井さんのかわいい顔を見ないように手で押し戻し、「無理、無理」と言ったそうですが、「ちょっとだけ。ね。」とささやかれてノックダウン。

2人で抜け出してコンビニに行ったそうです。


坂井泉水のプロ根性 肌のコンディション維持

歌のみならず、ビジュアル面でも努力を怠らなかった坂井さん。

肌のコンディションを維持するため、紫外線に当たらないように夕方に出勤して深夜に帰宅をする毎日を送っていたそうです。


PV撮影では夜間に強い照明を当てて昼間のシーンのように見せたこともあったそうです。


坂井泉水のスタッフとの暗黙のルール

1年のほぼ毎日一緒にいるスタッフ。どんなに仲良くなろうとも暗黙のルールが存在したそうです。

それは、プライベートで遊びに行くことは絶対にありえなかったといいます。


一致団結とはスタジオや作品だったりクリエイティブなところでは良いが、違うところで一致団結をするといろんな意味で。仲良くなる可能性がある。


仲良くなるということは、仲が悪くなる可能性がある


いろんなアラが見えて、もう嫌だなとなってしまうのを避けるため、最初からセパレートで動いた方がいいという発想だったそうです。

このようなストイックに作品をつくる姿勢から次々とヒット曲が誕生して行ったのでした。


ZARD坂井泉水のカリスマ性と苦悩


徹底的にメディアに出ず、ZARD坂井泉水のイメージを保つことで「カリスマ性」を作るというプロモーションを続け、日本の音楽業界に無くてなならない存在へとなっていきました。

しかし、順調に思えた歌手活動の裏で思い悩んでいたという坂井泉水さん。


「これでCDが売れなかったら歌うのをやめる」


90年代の後半に安室奈美恵、宇多田ヒカル、浜崎あゆみなどダンスミュージックやR&Bを得意とする歌手がヒットチャートに現れるようになると、時代の変化に苦しんだと言います。


慣れないラップを取り入れたりもしましたが、自分が表現したい音楽との違いに苦しんだそうです。

そして2001年から1年間歌手活動を休養するのでした。


休養から復帰し、ガンと闘った坂井さんの様子はこちらの記事でご紹介しています。

ZARD 坂井泉水の死因は自殺か事故か?ガンの闘病生活と復帰の夢


ZARD坂井泉水とはどんな人?まとめ

・「テレビに映たい」という幼少期の夢を叶えた
・歌声が大きく男性ロック歌手並みだった
・バックコーラスは大黒摩季だった
・2人で抜け出してコンビニに行った
・上目つかいでおねだりしてくるかわいい人だった
・一切妥協しないストイックな性格だった
・スタッフとは馴れ合わず一線を引いていた
・プロ根性でお肌のための生活リズムを送っていた
・ヒットを飛ばしながらも新たな歌姫たちの登場に苦悩していた
・時代の変化に悩み1年間の休養を選んだ
・メディアに出ないプロモーションを貫いた
・シャイな性格でレコーディング姿を見られるのが嫌だった

ということがわかりました。


とてもキュートな女性で、歌が大好きなことが伝わってきました。

この後、病気と闘い、40歳という若さで亡くなってしまい、皮肉にもカリスマ性が増してしまう数奇な運命を辿っていくのですが、今の時代でも色褪せない楽曲は今でも多くの人に寄り添い続けているのかと思うと、とてお偉大な人だったと改めて再認識しました。


ZARD 坂井泉水の死因は自殺か事故か?ガンの闘病生活と復帰の夢