菅義偉官房長官は、農家の出身で若い頃の苦労人だったそうです。
サラブレッドの多い政財界で、どうやって官房長官にまでなったのでしょうか?
今回は、菅義偉官房長官の生い立ち&経歴、エピソードをまとめました。
菅義偉官房長官の生い立ちは?
菅義偉官房長官は、政治家の家系ではなく農家の息子だそうです。
そこから、どうやって官房長官にまでなったのでしょうか?
菅義偉官房長官の実家
菅義偉官房長官は、秋田県雄勝郡秋ノ宮村で生まれました。
秋田県の中でも、とても田舎な場所だそうです。
現在の湯沢市で「あきたこまち」が名産です。
戦後に父親の和三郎さんが、「これからは、米だけでは食べていけない」とイチゴの栽培も始めたそうです。
母親と、叔父、叔母が元教員の教員一家でもありました。
姉が2人いるのですが、どちらも高校の教員になっています。
弟が1人がいますが、詳しい情報はわかっていません。
菅義偉官房長官本人は、「教師にだけは絶対になりたくない」と思っていたそうです。
菅義偉官房長官のプロフィール

- 名前:菅 義偉(すが・よしひで)
- 生年月日:1948年12月6日(昭和23年)
- 年齢:71歳(2020年4月現在)
- 職業:内閣官房長官・衆議院議員
- 血液型:O型
- 家族:妻・息子3人
- 好きな食べ物:甘いもの・めん類
- スポーツ:学生時代は空手
甘党でも有名ですよね。
パンケーキを食べる姿がかわいいと話題にもなりました。
菅義偉官房長官の小学校時代のエピソード
イチゴ農家で育った菅義偉官房長官。
とっても裕福という訳ではなかったそうですが、貧乏でもなかったそうです。
小学生時代のエピソードが「SAPIO」2015年8月号に掲載されていました。
小学校から高校まで同じ学校に通った、湯沢市議会議長の由利昌司さんによると、
「冒険王」という月刊漫画雑誌があったそうです。

当時、「冒険王」を買ってもらえる子供は、1学年に3人いるかどうかという時代だったのです。
しかし、菅義偉官房長官の家には毎月配達されていたのです。
家の前には、友達が行列を作り順番に読んでいたそうですよ。
菅義偉官房長官は、友だちに封を開けさせて先に読ませ、自分は夜に読んでいたのではと話していました。
とても優しい性格なのが伝わってきますよね。
菅義偉官房長官は若い頃は苦労人だった
父親からは、実家のイチゴ農家を継ぐ為、農業大学への進学を勧められていたそうです。
しかし、菅義偉官房長官は進学を選ばず上京して就職をしたのです。
夜逃げ同然で東京のダンボール工場集団就職をしました。
それが原因で、父親とは溝ができてしまったそうです。
集団就職を選んだ訳
「家を継ぐことがどうしても嫌だった」
「自分の力を試してみたかった」
と話していたそうです。
実家からの仕送りもなく、特にやりたいこともなかったので、住み込みのダンボール工場を選んだようです。
ところが集団就職をしたものの、将来の展望が見えないと感じていたそうです。
「視野を広げるため、大学で学びたい」との思いが強くなり、ダンボール工場を数カ月で退社し大学を目指すことにしたのです。
菅義偉官房長官はアルバイトをしながら大学を受験した
自分の将来を悩んだあげく、大学進学を決意した菅義偉官房長官。
早朝は築地市場の台車運びのアルバイト、夜は新宿で皿洗いをしながら、入学金を貯めたそうです。
帰宅後は受験勉強という生活を2年も続けた努力家でした。

そして、上から2年後に私立で一番安い「法政大学」へ入学したのです。
在学中は、ガードマン、カレー店などのバイトで生活費と学費を稼いでいました。
大学の4年間は、空手部に入部したそうです。

当時の様子を、全日本空手道連盟が発行の空手道情報誌「あゆみ」vol.9で話していました。
苦しい生活だからこそ、自分を徹底的に鍛え、空手道で忍耐・平常心を身につけようと鍛錬したそうです。
菅義偉官房長官の経歴
大学を卒業すると、民間の企業に就職しました。
建電設備株式会社(現・株式会社ケーネス)に入社したのですが、1975年26歳の時に政治家を目指すことにしたのです。

サラリーマン生活の中で、理不尽なこともたくさん経験したそうです。
「人生は一回きりだから自分の思うように生きたい」
「世の中を動かしているのは政治だ、人生をかけてみたい」
とやりたいことが見つかり、政治の道を志すことにしたのです。
菅義偉官房長官の政治への第一歩
政治家になりたくとも、まったく政界にツテがありませんでした。
そこで、法政大学の学生課へ相談に行き、法政大卒OBの国会議員事務所を紹介してもらったのです。
小此木彦三郎元通産大臣の秘書の口を紹介してもい、11年間も勤め経験を積んだのです。
横浜市議会議員へ立候補
プライベートでは、秘書時代に知り合った、5歳年下の真理子夫人に一目惚れをして結婚しています。
「真理子夫人は秘書仲間だった女性のお姉さんでした。菅さんは『(パッと見て)なんとなく(結婚する)』と、“ひと目ぼれ”だった」
2019/04/11「女性自身」
3人の子供にも恵まれています。

1987年には横浜市議会選挙に出馬して当選しました。
まだ子供が3歳、1歳、1ヶ月と小さい時だったことと、自民党の有力議員だったことから、周囲から出馬は猛反対されていたそうです。
それでも、市議を2期務め、横浜市長の相談を受ける事もあり「影の横浜市長」と言われていました。
子供は、息子が3人だそうです。
上の画像で、下を向いているのが嫁、その隣の子供が長男と次男ではないかと言われています。
なぜ官房長官になれたのか?
秘書から市議会議員を経て、官房長官にまでは、どんな経歴だったのでしょうか?
- 1975年:衆議院議員 小此木 彦三郎 秘書
- 1983年:小此木通産大臣秘書官
- 1987年:横浜市会議員 2期
- 1996年:衆議院議員総選挙に自民党から出馬して初当選
- 2006年:安倍内閣で総務大臣に起用され初入閣
- 2012年:第2次安倍内閣で、内閣官房長官に起用
2016年7月7日に、官房長官の在職期間が歴代1位の1,290日を達成し、現在も記録更新中です。
農家出身で、政財界のサラブレッドでもないのに、官房長官にまで登り詰めるなんてすごいですよね。
官房長官になれた理由は大きく2つあると言われています。
理由①
安倍晋三総理大臣の女房役として長年尽くしてきた、というのが大きな要因ではないでしょうか。
どんなところが、安倍晋三総理大臣のお気に入りなのでしょう。
- 菅義偉官房長官は誠実で口が硬い
- 絶大な信頼がある
- 安倍総理大臣は細かい仕事はほぼ丸投げ
- 東大出身ではないから?
菅義偉官房長官ご自身の人間性の高さは、もちろんなのでしょう。
そして、安倍晋三総理は高学歴、特に東大卒の政治家が好きではないと有名です。
学歴コンプレックがあると言われているので、菅義偉官房長官がエリート風を吹かせないタイプなのも居心地が良いのかもしれませんね。

理由②
2つ目の理由は、は菅義偉官房長官ご自身の今までの活躍への高い評価かと思われます。
- 拉致問題解決のために、積極的に取り組んだ
- 「再チャレンジ支援議員連盟」の立ち上げに参加
- 年金記録問題では、厚生労働大臣の柳澤伯夫氏を差し置いて総務大臣の菅義偉官房長官が検証を担当
積極的に政策に携わり、安倍晋三氏を擁立する原動力になっていたというのが考えられます。
自分の力を試したいと、農家を継がずに上京し、世の中の理不尽さに触れて政治家を目指してきた生い立ちや経歴でした。
政治家として認めてもらい、父親とは和解したそうですよ。






