「虹プロジェクト」からNiziU(二ジュー)を誕生させた、JYパークさん。
韓国で自身もヒット曲を飛ばす、アーティストでもあります。
日本では、JYパークさんの人間性や人柄にも注目が集まっていますよね。
今回は、JYパークさんの生い立ちと子供の頃から歌手としてデビューするまでをご紹介します。
JYパークさんの生い立ちは?
幼少期はアメリカに
J.Y. Parkさんの本名はパク・ジニョンで、 1971年12月13日に韓国ソウル特別市で生まれました。
父親の仕事の関係で、小学1年生の時にアメリカのニューヨークに約2年ほど住んでいます。
子供時代のJYパークさんの画像がこちらです。

面影がありますよね。
アメリカでブラックミュージックと出会い、音楽に興味を持ったそうです。
韓国語と英語、日本語を話せるJYパークさんですが帰国子女だったのですね。
高校生時代は日本の音楽にハマる
高校生の時には、日本の音楽もたくさん聞くようになったそうです。
特に好きなのは、桑田佳祐さんの『KUWATA BANDのスキップ・ビート』だそうです。
2020年10月6日放送の「スッキリ」に生出演した際には、日本の好きな歌2曲を披露し、『スキップ・ビート』を歌っていました。
JYパークさん曰く、桑田佳祐さんのアレンジは世界最高峰で、アジア人でもブラックミュージックができることを証明しているとのことです。
さらに、チェッカーズも大好きで、「ジュリアに傷心」も歌っていました。
メロディーが素晴らしく、アジア人の心に響くと絶賛しています。
大学時代にスカウトされる
大学2年生の時にクラブでスカウトをされたのが、歌手になるきっかけでした。
1992年にグループ名「パク・ジニョンと新世代」で、歌手デビューしたのですが、結果は振るわず…
オーディションを受けても、落選の日々だったそうです。
しかし徐々に転機を迎えます。
歌手のキム・ゴンモのマネージャーに声をかけられ、バックダンサーとしての仕事を掴みます。
この時期に作曲家のキム・ヒョンソクと知り合い、音楽理論を学ぶことによりその後の作曲の基盤を作ったのです。
JYパークが会社を立ち上げたきっかけは事務所の倒産だった
紆余曲折ありましたが、1994年にR&Bソロ歌手として再デビューをします。
まだ当時の韓国では珍しいセクシャルな衣装とダンスや、プロモーションを駆使して注目を集めます。
ところが2年ほどして、所属事務所が倒産してしまったのです。
これを期に1997年には、自分の会社を立ち上げ(現在のJYPエンターテインメントの前進)歌手活動以外にも、プロデューサー業も開始しました。
お茶目な部分と、誠実で真面目、努力家な人間性が、「餅ゴリ」という愛称で、韓国のみならず日本や世界で愛されるアーティストとなったのです。
成功までに苦労もしてきていますが、全て今の自分の糧になっているので感謝しているとインタビューで話しています。

