YouTubeで人気が再燃した、歌手の広瀬香美さん。
絶対音感があり、そのせいで幼少期からイジメられていたそうです。
また、初恋の相手が『バス』だった過去も…
今回は、広瀬香美さんの壮絶な生い立ちとデビューまでの経歴をご紹介します。
広瀬香美の生い立ち:幼少期
広瀬香美の両親
広瀬香美さんは、1966年4月12日に和歌山県で生まれました。
その後6歳までは大阪府で過ごし、6歳からは福岡県へ移住しています。
父親が建設関係のサラリーマン。
母親は専業主婦で、音楽経験がない両親でした。
音楽の先生以上に、練習に対して両親とも厳しかったそうです。
- 練習しないとご飯抜き
- 毎日1時間40分練習
- 最初の20分、気持ちが入っていなかったから20分延長と母に言われる
- 土日は、父も母もソファに座って練習風景を見張っている
両親からの英才教育が厳しすぎて、幼少期は「やらされている感」が強かったそうです。
その為、ピアノも音楽も大嫌いだったとインタビューに答えていました。
広瀬香美の音楽を始めたきっかけ
音楽に触れたきっかけは、母親が「手に職をつけさせたい」という思いでした。
4歳からピアノを習、5歳から作曲などの英才教育も始まったそうです。
ご両親曰く、広瀬香美さんには生まれつき絶対音感があり、音楽の才能があると感じていたらしいですよ。
幼稚園に通いながら他にも、和声学や楽典など音楽を総合的に習っていたのです。
両親の、娘を音楽家にしたいという気持ちが伝わってきますね。
そして、6歳で初作詞作曲の「パパとママ」を完成させたそうです。
小学校に上がると頭の中にメロディと詩が溢れて、後にヒット曲となるフレーズを書き溜めて行ったのでした。
広瀬香美のイジメられていた過去
幼少期に通っていた、音感教育スクールでは絶対音感の精度が高まります。
人の会話や生活音が全て音階で聞こえるようになったそうです。
「世の中の音、雑音が、”ドレミ”に変換しちゃうんです」と説明。それを聞いたスタッフが「雑音が?」と確認すると、その問いかけが「ドミミミミ」に聞こえるといい、その後も「あーなるほど」→「レーファファファファ」、「あ!そうなんですね」→「レ!ソレレレレ」と即座に変換していった。
しかし、その能力によって「全部階名でしゃべってたから、すごくイジメられてました」
2018/05/09 マイナビニュース
才能があるが故に、日常生活で苦労が絶えなかったそうです。
傍からはヘンに見られたり、夢の中で作曲ができてしまうこともあったそうです。
広瀬香美の生い立ち:中学生〜高校生
広瀬香美の初恋の相手はバス?
広瀬香美さんの、初恋は中学生の時でした。
絶対音感により街を走っているに『バス』のブレーキ音が気になったそうです。
ある特定の『バス』のブレーキ音が、「求愛の囁き」に聞こえたというのです。
そしてそのバスに恋をして、追っかけになってしまったとエッセイで語っていました。
2020年7月3日放送の「ダウンタウンなう」に出演した際も、特殊な初恋について話していました。
中学生の頃には、その絶対音感が理由で特殊な初恋を経験したそうで、「初恋の相手は人間じゃないんです」と広瀬が明かすと浜田はきょとんとした顔に。
初恋から失恋までを熱く語る彼女に、松本は「しびれるねぇ」と困惑する。また、坂上忍に好きな男性のタイプを問われ、彼女が放った一言が一同の笑いを誘う。
2020/07/02 ザテレビジョン
広瀬香美の中学・高校時代
幼少期からの英才教育の甲斐もあり、音楽の才能が開花した広瀬香美さん。
音楽を続けるのが当たり前に育ったので、中学と高校は音楽科に進学しました。
通っていた学校は、定員20人という狭き門の福岡女学院中学校・高等学校(音楽科)です。
高校時代には、自宅でスナック菓子を食べようとした時にパニックになってしまうことがありました。
袋を開ける時の”ガソゴソ”という音が、「やめて!」と言っている声に聞こえたそうです。
怖くなって袋を投げてしまい、引きこもりになってしまったのでした。
広瀬香美のの生い立ち:大学時代
広瀬香美さんは、高校に通いながら東京の音大を目指していたそうです。
2週間に1度、飛行機で東京に向かいレッスンを受けていました。
そして、東京の国立音楽大学音楽学部作曲学科に進学したのです。
ここまで、親の敷いたレールの上を歩いてきた広瀬香美さん。
テレビも見せてもらえず、クラシック以外も聴けない洗脳のような音楽漬けの日々だったと振り返っています。
大学に上がると、音楽人生で初の挫折を味わいました。
教授に『将来は作曲家になりたい』と言ったんです。
そしたらいやいや、成績をご覧なさい、と。
作曲学科は16人しかいないんですけど、私の成績は16番(笑)。
作曲家はピアニストよりも狭き門で、『1番でも作曲家になるのは難しいのに、よく考えたほうがいい』と言われてしまって。
音楽しか勉強してこなかったのにつぶしがきかない、どうしようと思いました。
そして、1年の夏休み前に、『大学をやめるしかない』と思い立ったんです」
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この時初めて、親に反抗をしたそうです。
親元を離れて上京しましたが、大学をやめたいと伝えたそうです。
しかし、卒業だけはして欲しいとお願がいされ悩んでいました。
広瀬香美のの生い立ち:海外留学
広瀬香美さんは、大学を辞めるか悩んでいました。
そこでロサンゼルスに留学している友人に相談をしたところ、転機が訪れたそうです。
当時のアメリカは、マイケル・ジャクソンやマドンナ、ボビー・ブラウンなどの全盛期でした。
友人に、『こっちの音楽は楽しいよ。遊びに来たら?』と言われたそうです。
そこで夏休みにアメリカに行き、クラシック以外の音楽に触れてたのでした。
それがとても楽しくて、ポップスの作曲家になりたいという思いが芽生えのです。
両親に音大を4年で卒業する代わりに、ロスに行きたいとお願いしたそうです。
『大学を卒業してくれるなら海外でもどこでも行っていい。仕送りもする』と。駆け引きに成功しました」
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海外留学に行ったことが、その後の広瀬香美さんの人生の大きな転機となったのでした。
広瀬香美のデビューのきっかけ
広瀬香美さんはロスに留学をする為に、国立音大に交渉をしたそうです。
そして、海外から作品を送る条件で大学の単位を取得出来ることになったのです。
20歳でロスへ留学し、東京を行き来する生活を4年間行いました。
そして友達の力を借りて、マイケル・ジャクソンのボイストレーナー「セス・リッグス」となんとか知り合うことができたのです。
『私はシンガーになりたい訳でなく、ソングライターになりたい』『クラシックの曲は書ける。ポップスを勉強して将来はマイケルやマドンナに曲を書きたい』と相談しました
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と伝えたそうです。
さらに、楽譜を書くアルバイトを紹介してくれたりもしてくれたのです。

そして、ちょっと歌ってみてと言われて披露すると、「声も伸びも良い」と褒められたそうです。
シンガーソングライターになることを勧められて、結局ボイストレーニングも受けることになったのでした。
この縁から、写譜や仮歌の録音などの仕事が舞い込んで行ったのです。
経験を積みながら、ロスで学んだポップスを元に作曲を始めました。
あくまでも、作曲家になりたい広瀬香美さん。
仕方なく自分で「ラララ」と歌ってデモテープを作っていました。
そしてそのデモテープを、日本のレコード会社や音楽事務所に送りまくったそうです。
ある日、ビクターの部長から連絡があり、『曲を書いてみないか?』と言われたのでした。
さらに、プロデューサーから『声がいいからあなたが歌ってみたら」と打診されたそうです。
そうしてできた曲が、デビュー曲の『愛があれば大丈夫』となったのでした。
デビューして、「ロマンスの神様」が大ヒット。
ここから、歌手としても目覚めたそうです。
