明石家さんまさんの笑顔の裏には、辛い生い立ちと家族との悲しい別れがありましたのでご紹介します。
- 2歳10ヶ月で実母と死別
- 継母からの嫌がらせ
- 義弟の自殺疑惑
- 父親の葬儀が原因となったポリシー
これらについてご紹介します。
明石家さんまの生い立ちは?
明石家さんまさんは、1955年7月1日に和歌山県東牟婁郡串本町で生まれました。
- 父親:杉本恒
- 母親:杉本つぎ代
- 兄:杉本正樹
- さんま:杉本高文
4人家族の次男として誕生し、生後半年の時に一家で奈良県奈良市奈良阪町へ引っ越しました。
父親はさんまの干物などを作る水産加工会社を経営していました。
お兄さんとは4歳の歳の差です。
母つぎ代の他界
母のつぎ代さんも水産業を手伝っていたのですが、奈良へ引っ越してから心労が祟り倒れてそのまま亡くなられたそうです。
当時さんまさんは、2歳10か月だったので母親のことは覚えていないと話していました。
母親の唯一の記憶は、葬式の日に飼い犬に噛まれてしまい、その噛み跡が今も残っているそうです。
その傷を見るたびに、母親の葬儀の日だったと思い出すそうです。
継母との再婚
さんまさんが小学生高学年の時に、実母つぎ代さんの3回忌を終えてから父親が再婚をしました。
- 継母:すみ江
- 義弟:正登
義理の弟とは8歳歳が離れていました。
さんまさんは、義理の弟さんとは仲が良く大事に想っていたそうです。
継母からの嫌がらせ
継母は連れ子の正登だけを可愛がって、自分の子供は正登だけだと話しているのを兄とさんまさんは聞いてしまったそうです。
それがとても辛く泣いてしまったと話していました。
しかし、なんとか継母とも仲良くなろうとギャグを考えたり笑わせそうと努力したそうなので、さんまさんらしいですよね。
お笑いは祖父からの遺伝?
しかし、継母とは確執が残る関係であったようです。
その仲を取り持ってくれたり、慰めてくれたのがさんまさんが面白いというほどの祖父・音一さんでした。
祖父はとてもユーモアのある人で、さんまさんをいつも笑わせてくれたそうです。
さんまさんのお笑いの原点は祖父からだったんですね。
小学校4年生の時に友人と漫才をしたり、中学校でも友人とお笑いグループを作って披露していました。
明石家さんまと義弟の悲しい別れ
明石家さんまさんの実家は、義弟さんが19歳(1983年)の時に火事になり全焼。
義弟さんが帰らぬ人となってしまう、悲しい出来事がありました。
当時は、祖父・父・継母・弟の4人が住んでいましたが、弟さんだけ助からなかったのです。
もし自殺だとしたら、その原因はなんだったのかですが…
- 実家の水産工場を継げと言われていた
- 高校で国体に出場するほどサッカーが上手かった
- 大学へ進学してサッカーを続けたかった
- 夢を叶えられず継がなければならないことへの苦悩があったのでは
このように当時報じられていたそうです。
義弟さんが19歳ということは、さんまさんとお兄さんは既に社会人として実家を出ていた時です。
さんまさんは一緒にサッカーのW杯を見に行こうと約束をするほど、仲が良かったので相当なショックを受けてしまったとのことです。
明石家さんまが父の葬儀で誓ったポリシーとは?
明石家さんまさんは、どんなに親しい人でも葬儀に参列しないというエピソードがあります。
芸人たるもの悲しんでいる姿を見せてはいけないという、さんまさんの芸人魂からでした。
お笑いの師匠・笑福亭松之助さんの葬儀にも参列せず、舞台を続けていました。
しかし、舞台が終わってからひっそりと訪ねてくれたと、笑福亭松之助さんの次男さんがインタビューで答えていました。
メディアの前に悲しんでいる姿を見せないだけで、故人を偲びひっそりと会いに行く優しさと強さを感じます。